2016年04月12日

茶の湯歳時記同好会新聞 第38号

マニラに渡った聖なる茶人『高山右近』の茶の湯C 檀上 宗厚

 領地没収となった右近は同じキリシタン大名の小西行長に庇護され
小豆島や肥後に隠れ住んでいたが、加賀の前田利家公に招かれて
天正16(1588)年に金沢に赴いた。

キリシタン大名の蒲生氏郷の元に『右近の金沢への下向は、
本人の意思であり目出度い事で安堵した』と千利休の文が届いた。
前田利家は信長に幼少から仕え、秀吉とも昵懇の間柄で
利休から茶の湯の指南を受けており、自然に右近とも
親密な関係であったのです。

 利休が金沢行きを喜んだ背景には茶の湯の人脈に対する
強固な信頼があたからでございます。

その後、関東の役が起こり秀吉は小田原の北条を攻めた。
右近は利家軍として勇猛果敢に戦功を上げ、
それを周知していた秀吉は右近の武功に対して
今までの事を赦免したのです。

利家は秀吉の意を汲んでか、軍功として右近に2万石を与え、
二度と武士になるまいと心に決めていた右近であったが、
利家の謝恩に再び近臣の大名になったのです。

文禄元年には肥前名護屋城で、茶会に招かれ秀吉と謁見し
和解が成立したのです。
それからの右近は、多忙な日々を過ごし慶長4(1599)年には、
前田利家より金沢城の*『縄張』を命じられ城を防御の為、
内外に二重の塀で囲み強固な城を造ったのは高山右近でございます。

キリスト教の布教や茶の湯のみならず、百戦錬磨の右近には
築城にも造詣が深かったのです。

翌年には天下を二分する関ヶ原の合戦が起こり右近は
前田家より徳川家康軍として参戦し北陸の大聖寺城を攻め
勝利を収めたのです。

ところが慶長13年、豊臣秀吉が
『露と消ゆ、夢と消えにし、わが身かな、浪花のことも、夢のまた夢』
と秀頼を五大老に託して世を去り、その翌年には後を追うように
利家も亡くなったのです。

以前より死期を悟っていた利家は、嫡男利長に
『高山南坊(みなみのぼう)は律儀な人ゆえ、これからも少々の茶代を遣わし
情けをかけるように・・・』
と遺言しているのです。
戦乱の世に、わが身より右近をこれ程思い慕われた武将は曾ててございません!

ルイス・フロイスの記録によれば、金沢藩主前田利長も入信を希望して、
宣教師が金沢を訪れた際に厚遇した事、右近に対して信任も厚かったと
本国に報告しています。

慶長14(1609)年秀吉公や父の後楯を無くした利長は、
新たな居城となる高岡城をより一層強固に造る様に『縄張』を
右近に命じているのです。

城内の隅々を極秘に周知する事は戦略上、重要な事で
如何に右近を信頼していたのか良く解ります。

前田利家の近臣となった右近は先陣を務め『いくさ』が滅法強いのは
『信仰によるものであろうか?見えぬものが見えるのか?』
迷う事なき直心の正功法で意表をついた戦法だったらしい。

慶長17年徳川家康は旗本の中にもキリシタンがいる事に危機感を覚え
二代将軍秀忠の名で禁教令を発布した。

右近をはじめ国内の修道士やキリスト教徒と同様に
長崎からマニラに国外追放の身になった。

金沢に36歳から62歳の老境に至るまで、26年間を過ごし
惜別の思いであった事でしょう。

慶長19年2月金沢を去るに際し利休を茶会に招いた時の茶入を
お手元に差出し『利長様、今まで、安穏の暮らしをさせて頂いた
お礼でございます。どうぞお受け取り下さいませ』
すると『南坊様の大切な茶入でございます。御身の御守りとして
お持ち下され』と利長は涙ながらに辞退されたらしい。

その後誰かに委ねられたのでしょうか?この茶入こそ
唐物の名物『侘助肩衝』の茶入として我国に現存しているのでございます。

その年の11月には長崎から家族とマニラに向け、利休より貰った
『鶴の羽箒』を携えて老朽船に乗り嵐などの苛酷な航海の末
12月ルソン島マニラに着いたのです。

待ち侘びていた人々は信仰の為に犠牲になった『高山右近ジュスト』を
英雄としてスペイン人のフィリピン総督やマニラの市民が
右近を大歓迎したのです。

しかし、船旅の疲れや慣れない気候の為、程なく病を得て
慶長20年2月3日に64歳を一期に、波乱万丈の生涯を閉じたのです。

葬儀はマニラ全市を挙げ10日間にわたって行われたと云う。

『信条を貫き、青天にして白日に生きてよかった』と
マニラのパコ駅前広場に右近の銅像が爽やかに日本を見つめて
建っているのでございます。


*縄張・・・普請奉行として築城の設計と施工を取り締まる


posted by etchuya at 15:18| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞