2016年06月20日

茶の湯歳時記同好会新聞 第39号

高山右近と尾道の明喜庵

ある日「檀上さん、橋本さんが茶室を広島の方に寄贈されると
聞きましたが、どの様に思いますか?」と、浄土寺長老様が
お尋ねになりました。私は即座に、「それはなりません!」とお答え
しました。

この事は余り知られていませんが、長老様はすぐに市長さんに
「尾道に存する文化財はそのままある様に」と懇願され、
正思惟なお考えと文化財に対する造詣の深さにより、明喜庵は
尾道に留まったのです。

橋本家は代々町年寄を努め、文人墨客と交友し浄土寺方丈、神社仏閣への
寄進や飢饉に慈善事業、広島銀行の創業、商工会議所の創設など近代産業の
普及、育成に尽力された尾道の豪商でございます。所有する茶室、爽籟軒は
腰掛待合、南北に続く露地、中央には「明喜庵と四畳半」の茶室、江戸時代には
防地川に面して船着場が造られ、尾道港よりお客様を迎えての茶会でありました。

茶室は京都の大山崎の禅寺、妙喜庵にある待庵と同じ形式の『明喜庵』として
備後尾道の橋本家に伝わっています。庵名は移築の際、ご遠慮なされたのか
明喜庵と書かれています。

myokian1.jpg


山崎にある待庵は豊臣秀吉公が明智光秀と山崎の合戦の折、利休に
命じて造らせた草庵茶室で、日本最古のものでございます。
天井は低く床は室床で四方に土壁で塗回して一畳の客座と向切の炉
(隅炉)があり、二段の仕付棚があります。


高山右近に宛てた利休の手紙

利休は天正十年十月二日、待庵作事の時、造詣の深い高山右近に
相談し、その後に礼状を送っています。その礼状には…

「丸太六本、仰せ付けられ候内、一本用に立ち申し候、大慶。
この事に候、相残るも別に用に立ち申すべく候、御念に入り候、
秀公へ申し聞かすべく候、御使者に懇ろに申し含め候、恐惶。
囲炉裏の由に候、本望に存じ候、以上。神無月二日、易花押。

封印の表書には高右公まいる。回答、易。山崎より」とあります。


myokian2.jpg


尾道の名席「明喜庵」と「露滴庵」

私は以前より橋本家の「明喜庵」の移築材の跡を見ると、
残された五本の内の丸太を使って造られたものであろうと
考えています。当時は宗家は茶室、茶道具など後世に伝える様
伝書にあり、古田織部は燕庵写しを作事する事を一般に許す
かわりにお家大事の時は移築する様にと伝えています。

蛤御門の戦で焼失した藪内家の「燕庵」は摂津の武田儀右衛門家から
移築されているのです。この様に茶室や茶道具は現在に受け継がれて
いるのでございます。利休時代よりの織部好茶室は日本には浄土寺の
露滴庵と藪内家燕庵の二ヵ所しかございません。右近、織部が係わった
茶室が尾道に存在する事が心豊かになります。

茶書にみる高山右近の茶の湯

右近は臨終の際「わが魂は、天地万物の御作者である神をひたすら
慕い奉る」と遺言しています。命は神の物であると考えていた右近は
信仰の力の大きさを茶の湯に取り入れ正しい思索、正しく生きる、
正しい理想、正しい努力、正しい見方を備えた武将でございまし
た。

右近は茶の湯も真剣勝負で臨み、ある時、千少庵の茶会に招かれ
緊張の余り手が震え顔つきまで変わっていた事を宗旦がそばで見
ていて改めて茶の湯は「大きなる事」なのだと痛感したと「江岑夏書」に
残されています。茶の湯文化は我が国に連綿と続いていますが、
作法ばかりでなく正しい精神を伝導したいものです。



posted by etchuya at 14:40| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞

2016年06月06日

茶の湯歳時記同好会 茶会レポート「第2回 織部茶会」

浄土寺(小林暢善住職)の茶室「露滴庵(国指定重要文化財)」は、織部好の
結晶と言われ、伏見城内にあった豊臣秀吉遺愛の茶室と伝えられています。
以後、京都本願寺〜広島藩浅野家〜備後の豪商・富島家(屋号:天満屋)を
経て、文化11年、光国長老の代に尾道の浄土寺に寄進されました。3月13日、
尾道を中心として活動する茶の湯歳時記同好会(全国に会員四〇〇名)
主催、浄土寺様の協力のもと、第2回織部茶会が開催されました。
県内外から60名のお客様が参加されました。

oribe1.jpg
外腰掛より露滴庵を望む

oribe3.jpg
待合は上段の間です。中央には当時の彩色で再現した聖徳太子像が
展観されています。本日の濃茶席、薄茶席の会記とともに、お道具の
次第、書付なども並べられています。


濃茶席「露滴庵」 遠州流

露滴庵三畳台目にて濃茶席の担当は、備後地方では初披露となった遠州流
(松江市)。ここ露滴庵の庵号の揮毫は、小堀遠州と伝えられています。
伏見で作事奉行を務めた小堀遠州と、伏見城にあった露滴庵とを結び付ける
もので、当時の茶の湯が重文茶室の中で蘇るようです。織部好の茶室の中で
点てられる遠州流の濃茶は、所作の随所に武家茶の香りが漂っています。
また、亭主の心から茶の湯を愛する気持ちが伝わってくるような素晴らしい
お席となりました。菓子は、天正十五年利休百会記にみられる芥子の実と
味噌餡の「ふのやき」が振舞われ、大変興味深い濃茶席となりました。

oribe2.jpg



古田織部と小堀遠州

oribe6.jpg
古田織部の肖像

織部と遠州は、千利休と並び、三大茶人として尊敬され続けています。
織部は、利休門下、七哲のひとりで利休自刃の後、茶の湯をリードした人でした。
師・利休とは異なった茶の湯を模索し、武家社会に相応しい茶法を確立しました。
一方で、利休の樂焼や二畳敷に対し、織部は、瀬戸で茶陶を創作し、それらを
「燕庵」のような、利休茶室より広く明るい空間で用いたのでした。茶人にとって、
茶室は茶の湯を探求する上で重要な道具のひとつだったのです。

enshu.jpg
小堀遠州の肖像

遠州は、織部の高弟であり、若くして茶室や露地の創意で、織部に一目置かれる存在
でした。遠州もまた、利休や織部が極めた茶の湯とは違った方法で探求をした茶人の
ひとりです。遠州は、和歌の世界(日本の王朝文化)の伝統を茶の湯の世界に
取り込んで、徳川幕府の武家茶を深い教養と高い格式を以て確立した茶人と
いえると思います。さらには、唐物道具を取り合わせる一方で、明や李朝に対して
茶道具を注文製作したり(古染付や御本茶碗)、国焼の茶道具製作にも尽力し
茶道具の世界観を一層広げた茶人と言えます。茶器の次第を整えて、多くの名物や
中興名物を現代に伝えましたが、これらは私達の眼を今でも楽しませてくれます。



薄茶席「梅の間」 速水流

書院梅の間(重文)は、速水流です。流祖の速水宗達は、博識な医師であり、
茶人としても非常に有名であったことから、聖護院宮より「大日本茶博士」号を
授かり、宮中での茶の湯の指南に尽力しました。公家や宮中の茶の湯もまた、
茶の湯の歴史の上で重きを成しています。武家とも千家とも異なった世界観があり、
このような茶風は今、速水流に受け継がれているように思います。

oribe4.jpg

亭主は、この日の為に古田織部や武家茶、流祖速水宗達にゆかりある道具を
宮中の茶の湯に相応しい書院の間で取り合わせて薄茶を振る舞われました。
亭主のお人柄が感じられる、和気あいあいとした素晴らしいお席となりました。 


時代懐石「方丈」

時代懐石の席も、織部茶会の人気のひとつになっています。今回は、天正十八年
の利休百会記から再現しました。その時の客は、利休参禅の師・古渓宗陳、織部
参禅の師・春屋宗園、利休に茶を学んだ玉浦紹jの大徳寺の高僧です。

oribe7.jpg

oribe5.jpg

献立

【向付】  分葱 赤貝 鳥貝 防風 ぬた和え
【汁】   白味噌仕立 祢芋 牛蒡 粒椎茸 松露 うぐいす菜
【飯】   大盛白米
【煮物】  朧豆腐 薄葛汁 山葵 胡
【焼物】  鱒 木の芽焼
【酢の物】 胡瓜 きざみ するめ 縮緬 胡麻
【香の物】 聖護院大根二ツ折 葉  以上

             調理 宇根本茂
             監修 檀上宗厚


posted by etchuya at 16:19| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会