2016年12月01日

聖トマス小崎を優しく迎えた小早川隆景公 第41号

開門すれば落葉多く、ご機嫌よろしゅうございます。

軍師黒田官兵衛シメオンも係留した三原城跡五番櫓の三角地に筆と奉書を
持った裸足の少年の像がございます。それは三原で一夜を過ごした14歳の
トマス小崎でございます。京、四条大宮の修道院近く妙満寺で父ミゲルと
病める人々を献身的に看病しているとき、早急な政策に及んだ豊臣秀吉の
キリシタン禁教令によりトマス達は一網打尽にされたのです。

死刑宣告文を掲げられ、裸足で京都、尾道、三原と九〇〇キロに及ぶ
長崎までの苛酷な殉教の旅が続いたのです。慶長元年(一五九七)縛られた
一行は十二月二日雪が舞う寒い夜にやっとの思いで三原に着きました。
悲惨な姿を見た町衆は口々に「お気の毒じゃのう!」しかし、
世間の風は厳しく、秀吉の罰を恐れ言葉をかける事さえ出来なかったのです。
軒先で休息のトマスは

『父上様、寒うはございませぬか?』
『伊勢の母上や弟に会いとうございます』
『そうだなぁ。如何にせん、遠くまで来てしもうたなぁ』すると
「どうぞこちらへ同道されよ」その声に
『かたじけのうござる。お礼を申しまする』

父ミゲルはもともと伊勢の弓職人で通じ合うものがあったのでございましょう。
案内の武士は北条時頼の家系で土生太郎左衛門時春でございました。
隆景公に尊崇の念を抱いていた土生家は、岸和田城を造営し軍学にも優れ、
隆景公に請われて普請奉行になり三原城を築いた人でございます。
それは隆景公の信望厚く代々『景』の一字を受け継ぐ程の家柄でございました。
しかし朝鮮の役に出陣した隆景公は多くの家臣を失い時春も彼の地で
戦死をしています。私の祖先檀上監物重行も公の家臣でございましたので
備中高松の戦に隆景勢として出陣しました。

暗い牢屋で『伊勢の母に、文を送りとうございまする』と時春に懇願すると
武士の情けでございましょうか、筆、硯、奉書、薬、灯りまでも
そっと届きました。これは隆景公の優しい計らいでございます。

三原城の小崎.jpg

トマスは墨をすり終えると一気に

『主のお恵みにより一筆したため候。肥前への道は難儀多く候ども
耐える事おしえの如、真理を貫くことに候えば、先で十字架に架かる事あれど、
いささかも悔ゆる事これ無く候。パードレ様方に従い父様共々映えの御召しに
感謝しつつ歩く毎日にて候えば、何卒私どもの事はご放念あるべく願上げ候。
母様方には、パードレ様は不在なれど常の如く天主への感謝の祈りとご諚に
従う事を心がけ致されれば、必ずお救い之ありと思召し下されば何よりと存じ上げ候。
今度あうはパライソ。お待ち申し上げ候。尚、弟達の信仰をよくお導き下さる様、
近き方々には日々の行い悔いなき様努める事こそ肝要とお伝え願い上げ候』

慶長元年十二月二日安芸国三原城にて…

これが死を迎える十四歳の少年が母に宛てた手紙でございます。
しかしながらこの手紙は母には届く事なく共に磔にされた父ミゲルの襟元から
発見されたのでございます。同じくして隆景公もその三ヵ月後に三原城で病に倒れ
一生を終えたのでございます。この事を知ったルイス・フロイスは本国に伝え
現在イエズス会文書館に保存され三原の地名も残されています。
ローマへも伝えられ日本二十六聖人の一人として多くの賛美と敬愛を受けて
いるのでございます。

この史実が光明に満ちて、昭和六十二年、聖トマス小崎の顕彰の機運が高まり
医師阪田光昭、邦子ご夫妻の尽力により設立委員会が結成されて『聖トマス小崎』像が
完成したのです。「よくぞここまでに!」すると『多くの皆様のお陰でございます』と
謙虚な優しい眼差しでございました。

玉壺会はカトリック三原教会の神父、アルナルド・ネグリ様にお手伝いして頂いて、
隆景公の優しさとけなげな聖トマス小崎の遺徳を伝え、
本年十二月三日(土)難波幸一先生によりトマス小崎少年の供茶式と顕彰茶会を開催します。
来年六月十一日には市内十ヵ寺で『築城四五〇年記念千人茶会』を計画しています。
隆景公の遺徳と凛々しく清らかに生きた崇高な少年の実績を末永く顕彰し
多くの先人の遺徳により平和な日本がある事を感謝したいものでございます。

(平成29年初春号に続く)
posted by etchuya at 12:08| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞