珠光様は利休様より百年前に奈良に生まれ、名を茂吉と呼ばれた。父は村田杢市検校と称して東大寺、春日大社の宮大工で地位の高い営繕首座の社僧、平家琵琶の名手でもあった。茂吉が十歳の時、称名寺の了海上人に得度して僧となり、法林庵を営んだが、求むるものがあったのでございましょう、二十歳の時寺役を辞して漂泊の身を望み、茶の湯の度に赴いたのでございます。唐風を尊んだ室町文化は美術品の鑑定に長じた足利義政公の同朋衆、能阿弥が書院の四幅、三幅一対の軸の飾り法や違い棚、三具足の配置法など茶の湯の装束まで貴人は素袍、俗人は裃、法体は袈裟十徳と制定され、東山流の茶は大成に至ったのです。一方、京に身を寄せていた茂吉は西大寺の大茶盛、興福寺衆徒の功徳風呂や淋汗の茶に強く影響を受けていたのです。
淋汗の茶
当時は水風呂や薬草で蒸した風呂、湯風呂があり、湯に浸かる事は、最高の贅沢で庶民の手には届かなかったのです。興福寺別当、大僧正経覚日記(一四六九年)には、「古市播播磨守澄胤は、一年間で十二回、淋汗の茶会を開いた。湯風呂には主賓の私が入浴し、次に澄胤の一族百五十人程が順番に澄胤夫人、女中と続き、翌日には古市の郷民も許されて功徳風呂となった。御会所には軸が掛かり、花が活けられ、明国から伝う蓬莱山と竹林の七賢人や我が国の勇士の人形が飾られていた。特にカラクリによる置物の亀の口からお酒が湧きいでて皆に一献が振る舞われた。容器には宇治茶と椎茶が盛られ茶を飲み、白瓜と山桃と素麺の点心を一同に食して清涼な茶会で目を瞠るものであった」と記されています。淋汗の茶は、貴族や武将、僧侶たちの遊山の場所でもあったのでございます。
侘び茶の誕生

こうして珠光は天運に身を任せ、心の赴くままの六年間を過ごし、京三条に庵を結び茶の湯を楽しんだ。吉縁あって立華の師を能阿弥に求め、宝物の目利き指南を受け、かわりに茶の湯を伝授して互いに良く指南を仕合った。大徳寺真珠庵の一休に参禅している珠光にその意を嘉賞して大切な宋の天寧寺、圓悟禅師の墨跡を印可状として与えられ、こうして茶禅一味の境地に至り、今に禅僧の一幅を床にかける風習が残されているのです。圓悟禅師は禅の大先達で禅門第一の書「碧巌録」を編んだ高僧であり、禅を尊んだ茶匠の武野紹鴎や津田宗及が南宗寺の大林宗套に、利休が大徳寺の笑嶺宗訢に、織部や遠州が春屋宗園に、石州が玉室宗伯にと教えを請うたのは、みな珠光の影響によるものでございましょう。
ある千秋の頃、義政公が能阿弥を召して「古より、ありきたりの茶の湯はもはや事尽きた。老いの身には雪の山を分けての鷹狩りも、もう似合わず、何ぞ珍しき事はなきや?」と仰せになり、能阿弥は「奈良に珠光という人物が茶の湯に志が深く、三十年もこの道に精通し、孔子の道を学びて、仏法も茶の湯の中にあると申す僧がおります故、茶の湯を遊ばされては…」と言上したのです。お目通りが叶い、茶の湯、儒教、仏法などを深慮に説いた珠光を足利家の茶の湯指南役に召し抱えたのでございます。珠光は書院から六畳、四畳半の台子点法を尊び、唐物から和物の茶道具を取り入れて小座敷の奈良流の侘茶を見出したのでございます。
珠光心の文
当時の茶の湯を賢察して愛弟子の武将、古市播磨守澄胤に戒めた一文を贈りました。その『心の文』には、
「此道、第一の悪き事は心の我慢、我執であり一念に凝り固まって他を返り見ない事である。例えば練達の者に近づいては妬み、初心の者に対して見下す態度をとる事などは、一段と不都合な事である。宜しく練達の者に近づいて、その道理をよく悟り、一言なりとも感嘆する機会をとらえるのです。また、初心の者には如何にしても是非に育ててやるべきである。この道の一大の眼目とするところは、和漢(中国と日本)の境地を融和させることである。これは極めて肝要な事で心を配らねば成らぬ事である。当時冷え枯るる(枯淡)と申して、初心の人が備前物、信楽物などを持ちて一人よがりに境地を見出そうとする事は言語道断也、枯るると言うは、良き道具を持ち、その味わいをよく知りて、自身の心の素地により冷え枯れた境地に至ろうとする事に努め、面白くあるべき也。到底そのような事が物心共に満足叶わぬ人は、道具を賞玩するべからず候也、いか様の手取り風情を感嘆することが肝要にて候。唯、我慢我執が悪き事にて候。又は我慢なくてもならぬ道也。銘道に曰く、心の師となるがよい、が、しかし心を師とせざれと、古人も云われし也。」と伝う。
茶の湯に志す私達は、心豊かにかくの如く有りたいものでございます。
茶祖村田珠光は、京都真珠庵と奈良称名寺に葬られ、ご位牌には「獨蘆軒南星珠光西堂」とありて、花鳥風月を友とし、和歌を好み、茶を点じては風流三昧に過ごし、南都、京師の間を往還して楽しみ、文亀二年(一五〇二)五月十五日、八十歳の齢を収められたのでございます。

同世代を生きた一休宗純の臨終の言葉にはこうあります。
「借用申す昨月昨日、返済申す今月今日、借りていた五つのものを四つ返して、本来の空に今戻る」