2015年04月06日

戦艦大和と祖父

4月の日曜日に、2年前に亡くなった祖父の三回忌の法事がありました。
94歳まで元気にいてくれた祖父で、日本にとって大変な時代を
生きた人です。祖父の、そのまた祖父の代に、我が家は製陶業や
寺子屋を営みながら、お茶道具を売り歩いていたそうですが、やがて
戦争時代に入り、祖父は大阪、京都へ出て鋳造の技術を学びました。

僕が子供の頃から、鋳造のいろんな話を聞かせてくれたものです。
茶の湯の釜の鉄の味わいや、鋳造方法、金物の鍛造などもいろいろ
教えてくれて、今でもとても役立っています。


祖父は、昭和15年、呉にある海軍工廠に赴任して、戦艦大和の建造に
従事しました。大和の心臓部、機関やスクリュー、錨の揚錨機を担当しました。

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昭和16年10月20日 戦艦大和試運転の雄姿

「毎朝毎夜、大勢の人が一斉に工廠の門を通ってねぇ、工廠の中は広いけぇ
ずいぶん歩いて工場に着くと大きな船台の下を通ってね、船台のはるか上に、
(船首に掲げてある)菊の御紋が見えるんよ。大和はねぇ、当時はそれを
大和とは知らんかったけど、本当に大きな見事な船じゃった。」

「ある時に、定規を縦に持って顎に当てて、頭を支えながら図面を
検討しとったんじゃけど、そうでもせんと頭が支えられんぐらい体中が
疲労しとってね、そんな時に、おい!姿勢を正せっ!と、工場長が回ってきた。
姿勢を正して待っておると、山本五十六連合艦隊指令長官が工廠を視察に
来られてね、数名の上官がご一緒じゃった。自分の前で、「御苦労!」と
激励してくださったんよ。威厳のある凄い方だった。
勇気が湧いてきて、疲れを忘れて一生懸命作業したんよ。」

「作戦を終えた艦隊が呉に帰ってくるのは、それは凄い光景だった。長門や
赤城、有名な戦艦や空母、巡洋艦が沢山入って、何月何日の出港に合わせて、
沢山の船を同時に修理したりしたんじゃけど、交代制でも睡眠時間は2〜3
時間じゃったかのぅ。大型の客船を空母に改造したこともあったよ。」

祖父は、海軍工廠で様々な歴史を目の当たりにして、祖父の目線での
その時代の事を話してくれました。


戦争末期になって、過労のため生死の境を彷徨い、呉で療養を続けました。
尾道には沢山のお寺がありますが、そのほとんどのお寺の釣鐘が、戦争供出で
弾薬になったり、鋼材になったりして無くなっていました。
戦後、体調を回復した祖父は、鋳造の技術を平和のために生かそうと、
備後一円のお寺を訪ね歩き、釣鐘を復興、製作して回りました。
それはきっと戦友の供養の為に努めていたのかも知れません。


菩提寺・善勝寺の鐘楼には、祖父が造った釣鐘が今も残っていて、
本堂裏のお墓からは鐘楼がよく見えます。毎日、祖父と祖母が
一緒に眺めているんだと、手を合わせながら思いました。

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尾道善勝寺の鐘楼と、祖父の釣鐘

小早川隆景公の菩提所米山寺、拳骨和尚のお寺齊法寺、桜の有名な千光寺、
三原の大善寺、向島の長福寺、菩提寺の善勝寺など、今はお茶会の行事で
ご縁を頂いているお寺は、祖父の釣鐘のご縁によるものだと思っています。


 
4月7日は、戦艦大和が沖縄に向かう途中、鹿児島県沖で米軍航空隊386機の
猛攻を受け、3056人の乗組員とともに沈没した日です。今年で70年を迎えます。
心より追悼の意を表します。

 


posted by etchuya at 16:05| Comment(1) | 日記
この記事へのコメント
越中屋様
突然書き込みで失礼いたします。御祖父様が呉海軍工廠におられた記事が目に留まりました。自分の父も生存していれば、現在95歳になります。父も昭和20年6月から呉海軍工廠造機部と云う部署におりました。平成24年から呉海軍工廠での足跡を調べて本に纏めております。
題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」(自費出版 非売品)と云います。縁があり、三原市の4つの図書館には最新版が登録・・。尾道市は、第2版が登録されております。全国では、120か所の図書館で読めます。自分としては、海軍工廠所縁の方に読んで頂ければと思っております。
お時間がある時に、是非ご覧ください。
Posted by フランツ at 2017年10月31日 12:39
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