ある日「檀上さん、橋本さんが茶室を広島の方に寄贈されると
聞きましたが、どの様に思いますか?」と、浄土寺長老様が
お尋ねになりました。私は即座に、「それはなりません!」とお答え
しました。
この事は余り知られていませんが、長老様はすぐに市長さんに
「尾道に存する文化財はそのままある様に」と懇願され、
正思惟なお考えと文化財に対する造詣の深さにより、明喜庵は
尾道に留まったのです。
橋本家は代々町年寄を努め、文人墨客と交友し浄土寺方丈、神社仏閣への
寄進や飢饉に慈善事業、広島銀行の創業、商工会議所の創設など近代産業の
普及、育成に尽力された尾道の豪商でございます。所有する茶室、爽籟軒は
腰掛待合、南北に続く露地、中央には「明喜庵と四畳半」の茶室、江戸時代には
防地川に面して船着場が造られ、尾道港よりお客様を迎えての茶会でありました。
茶室は京都の大山崎の禅寺、妙喜庵にある待庵と同じ形式の『明喜庵』として
備後尾道の橋本家に伝わっています。庵名は移築の際、ご遠慮なされたのか
明喜庵と書かれています。

山崎にある待庵は豊臣秀吉公が明智光秀と山崎の合戦の折、利休に
命じて造らせた草庵茶室で、日本最古のものでございます。
天井は低く床は室床で四方に土壁で塗回して一畳の客座と向切の炉
(隅炉)があり、二段の仕付棚があります。
高山右近に宛てた利休の手紙
利休は天正十年十月二日、待庵作事の時、造詣の深い高山右近に
相談し、その後に礼状を送っています。その礼状には…
「丸太六本、仰せ付けられ候内、一本用に立ち申し候、大慶。
この事に候、相残るも別に用に立ち申すべく候、御念に入り候、
秀公へ申し聞かすべく候、御使者に懇ろに申し含め候、恐惶。
囲炉裏の由に候、本望に存じ候、以上。神無月二日、易花押。
封印の表書には高右公まいる。回答、易。山崎より」とあります。

尾道の名席「明喜庵」と「露滴庵」
私は以前より橋本家の「明喜庵」の移築材の跡を見ると、
残された五本の内の丸太を使って造られたものであろうと
考えています。当時は宗家は茶室、茶道具など後世に伝える様
伝書にあり、古田織部は燕庵写しを作事する事を一般に許す
かわりにお家大事の時は移築する様にと伝えています。
蛤御門の戦で焼失した藪内家の「燕庵」は摂津の武田儀右衛門家から
移築されているのです。この様に茶室や茶道具は現在に受け継がれて
いるのでございます。利休時代よりの織部好茶室は日本には浄土寺の
露滴庵と藪内家燕庵の二ヵ所しかございません。右近、織部が係わった
茶室が尾道に存在する事が心豊かになります。
茶書にみる高山右近の茶の湯
右近は臨終の際「わが魂は、天地万物の御作者である神をひたすら
慕い奉る」と遺言しています。命は神の物であると考えていた右近は
信仰の力の大きさを茶の湯に取り入れ正しい思索、正しく生きる、
正しい理想、正しい努力、正しい見方を備えた武将でございまし
た。
右近は茶の湯も真剣勝負で臨み、ある時、千少庵の茶会に招かれ
緊張の余り手が震え顔つきまで変わっていた事を宗旦がそばで見
ていて改めて茶の湯は「大きなる事」なのだと痛感したと「江岑夏書」に
残されています。茶の湯文化は我が国に連綿と続いていますが、
作法ばかりでなく正しい精神を伝導したいものです。