
献茶式が終わり本丸を降りると遠くの山々に霧が立ち込めています。
帰り道には随分下の方に城下町が見えて、臥牛山の高さを改めて感じました。
少雨の中、「ふいご峠」という、良い響きの峠でバスに乗りました。
バスは、高梁総合福祉センターに到着、こちらが点心席となっています。
城下町に相応しいような駕籠形の点心です。
大変なご馳走でした。お酒やビールなども用意されていて、
大変贅沢なおもてなしでした。
点心を美味しく頂き、これから頼久寺茶席までは城下町高梁の見学です。
作事奉行小堀政一(遠州)が町割りに深く関与した城下を歩くのは、
天空の茶会のもうひとつの楽しみでした。
旧高梁尋常小学校・郷土資料館

明治時代に建てられた洋館は、旧高梁尋常小学校だった建物です。
日本にとって明治時代は、大変素晴らしい人材を産んだ時代だったと
思います。この建物からも多くの人材が巣立っていった事でしょう。
中に入ると、郷土資料館となっています。
備中鍬という発明品
備中松山という地での生活用具などがたくさん展示してあります。
その中に備中鍬というものがあります。鍬は田畑を耕す鉄製の道具ですが、
備中鍬は先端が三叉、四叉になっています。現代では当たり前に感じますが、
このような優れた効率の鍬は、備中が産んだ発明品だそうです。

備中鍬の発明は、何と!茶人・小堀遠州であったというから驚きです。
そしてこの備中鍬は、瞬く間に全国へと注文が相次ぎ高梁の町は潤ったそうです。
小堀遠州という人の才能、豊かなアイデアは、茶の湯文化の中だけでは無かった
ようですね。こうしたアイデアも人を思いやる心から出たものでしょう。
紺屋川筋

次は紺屋川(こうやがわ)筋という町を歩きます。良い名です。
こちらも遠州が町割りをしたと伝わるもので、紺屋川を挟んで通りが出来ています。
美観地区として「日本の道百選」に選ばれています。遠州の「綺麗」という美的
感覚は町造りにも込められていたのでしょうか。
この川には短い橋が架かっています。橋の名は「老松」「相生」「住之江」。
お能や茶の湯の銘で耳にするような、文化的で美しい名の橋だと思いました。
石火矢町と武家屋敷
少し歩いて、石火矢町に着きました。石火矢(いしびや)とは、鉄砲や大砲の事で、
この町は、戦の時、防御の要になる城下町の要塞です。「埴原家」と「折井家」という
ふたつの武家屋敷が保存公開されています。

埴原家は、120石取の近習役や番頭役を務めた武士の屋敷。これに対して、
折井家は、200石取の武士が暮らしていた屋敷です。
それぞれの屋敷を見て回ると埴原家のほうが石高は低いにもかかわらず、
座敷は全て畳が敷かれ、火燈窓のある書院が備わった大変贅沢な造りに
なっています。
一方折井家は、200石と埴原家より石高が高いわりに、板間に筵を
敷いた質素(質実剛健)な暮らしが垣間見られました。
前者のような、近習を務める武家は、生まれた時から御殿の生活様式を
身に付けていなければならないという英才教育なのだそうです。
後者の折井家のような一般的な武家は、常に戦時に備え質素倹約をした
という事です。石高の大小に関わらず自家の家風に応じた生き方を守ったんですね。
武家屋敷の奥の庭には、小さな池がありました。
この池で鯉を飼い、お客の折には「鯉の洗い」でもてなし、戦時には
大切な兵糧としての役目もあったそうです。昔の茶会記に「鯉の洗い」が
出てきますが、面白いものです。
頼久寺へ

城下町見学も終わり、頼久寺に参りました。
石段を上がると正面が石垣と土塀、左に向きを変えて上がり山門は右手にあります。
何度も向きを変えながら門にたどり着くような構造は、城郭に見る枡形の構造です。
このようなお寺の構えは全国でも珍しいように思います。
備中兵乱の折の、厳しい争奪戦の名残があるのかも知れません。
本堂にお参りして、庫裏を見上げると「紅がら瓦」が葺かれています。この瓦も
遠州公の創意だったそうです。

小堀遠州は、慶長5年(1600:遠州21歳)〜元和5年(1619:遠州40歳)まで
備中の作事奉行を務めました。頼久寺の庭園は、遠州の若年の頃の作とされますが、
非常に見事な庭園です。白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島のある蓬莱式枯山水です。
愛宕山を借景にして左手にあるサツキの大刈込で青海波を表現しています。
遠州作庭当時の姿を今に伝える大変貴重な名勝となっています。
頼久寺茶席

遠州公の庭園を望みながら、薄茶席が始まりました。
何という贅沢なお席でしょうか、遠州公もこの庭園を見ながら、御茶をされた
ことでしょう。遠州流のひとつひとつの動作を大切にするようなお点前見ながら、
今朝からの登城、お献茶、紺屋川町割と石火矢の町並みの事を少し思い出したりしました。
とても味わい深く、勉強になった一日でした。
お茶席が終わって、今一度、お道具の数々を拝見させて頂きました。
お寺に伝わる、遠州自筆のお触書の木札も、非常に興味深いものでした。
戦乱が続き荒廃しつつあった備中という町を、ここまで美しく磨き上げ、
文化を大切にした遠州公の功績に感服し、「天空の山城」の茶会活動の
意味深さを感じました。
この素晴らしい茶会が今後も続き、備中松山から多くの文化人が生まれると
良いと思います。
丁寧にガイドして下さった高梁市の方々、遠州流の方々、頼久寺住職様に
心から感謝申し上げます。