4月の日曜日に、2年前に亡くなった祖父の三回忌の法事がありました。
94歳まで元気にいてくれた祖父で、日本にとって大変な時代を
生きた人です。祖父の、そのまた祖父の代に、我が家は製陶業や
寺子屋を営みながら、お茶道具を売り歩いていたそうですが、やがて
戦争時代に入り、祖父は大阪、京都へ出て鋳造の技術を学びました。
僕が子供の頃から、鋳造のいろんな話を聞かせてくれたものです。
茶の湯の釜の鉄の味わいや、鋳造方法、金物の鍛造などもいろいろ
教えてくれて、今でもとても役立っています。
祖父は、昭和15年、呉にある海軍工廠に赴任して、戦艦大和の建造に
従事しました。大和の心臓部、機関やスクリュー、錨の揚錨機を担当しました。

昭和16年10月20日 戦艦大和試運転の雄姿
「毎朝毎夜、大勢の人が一斉に工廠の門を通ってねぇ、工廠の中は広いけぇ
ずいぶん歩いて工場に着くと大きな船台の下を通ってね、船台のはるか上に、
(船首に掲げてある)菊の御紋が見えるんよ。大和はねぇ、当時はそれを
大和とは知らんかったけど、本当に大きな見事な船じゃった。」
「ある時に、定規を縦に持って顎に当てて、頭を支えながら図面を
検討しとったんじゃけど、そうでもせんと頭が支えられんぐらい体中が
疲労しとってね、そんな時に、おい!姿勢を正せっ!と、工場長が回ってきた。
姿勢を正して待っておると、山本五十六連合艦隊指令長官が工廠を視察に
来られてね、数名の上官がご一緒じゃった。自分の前で、「御苦労!」と
激励してくださったんよ。威厳のある凄い方だった。
勇気が湧いてきて、疲れを忘れて一生懸命作業したんよ。」
「作戦を終えた艦隊が呉に帰ってくるのは、それは凄い光景だった。長門や
赤城、有名な戦艦や空母、巡洋艦が沢山入って、何月何日の出港に合わせて、
沢山の船を同時に修理したりしたんじゃけど、交代制でも睡眠時間は2〜3
時間じゃったかのぅ。大型の客船を空母に改造したこともあったよ。」
祖父は、海軍工廠で様々な歴史を目の当たりにして、祖父の目線での
その時代の事を話してくれました。
戦争末期になって、過労のため生死の境を彷徨い、呉で療養を続けました。
尾道には沢山のお寺がありますが、そのほとんどのお寺の釣鐘が、戦争供出で
弾薬になったり、鋼材になったりして無くなっていました。
戦後、体調を回復した祖父は、鋳造の技術を平和のために生かそうと、
備後一円のお寺を訪ね歩き、釣鐘を復興、製作して回りました。
それはきっと戦友の供養の為に努めていたのかも知れません。
菩提寺・善勝寺の鐘楼には、祖父が造った釣鐘が今も残っていて、
本堂裏のお墓からは鐘楼がよく見えます。毎日、祖父と祖母が
一緒に眺めているんだと、手を合わせながら思いました。

尾道善勝寺の鐘楼と、祖父の釣鐘
小早川隆景公の菩提所米山寺、拳骨和尚のお寺齊法寺、桜の有名な千光寺、
三原の大善寺、向島の長福寺、菩提寺の善勝寺など、今はお茶会の行事で
ご縁を頂いているお寺は、祖父の釣鐘のご縁によるものだと思っています。
4月7日は、戦艦大和が沖縄に向かう途中、鹿児島県沖で米軍航空隊386機の
猛攻を受け、3056人の乗組員とともに沈没した日です。今年で70年を迎えます。
心より追悼の意を表します。