2017年04月11日

茶の湯歳時記同好会新聞 第43号(夏季号)

「三原築城450年、小早川隆景公を偲んで」 檀上宗厚

『檀上さんですか、小早川でございます。ご無沙汰しています。お元気ですか?』
実は千人茶会にお出まし下さる様にと文を小早川家ご当主隆治様にお届けして
いました。五年前に大徳寺黄梅院で隆景公四一四年忌の法要、追善茶会に招かれ
ました折にお目通り頂きました。『千人茶会には参ります』と仰せで嬉しく存じ
ます。

草案より二年、不思議な事に浄土寺平成大修理の落慶近き時に千人の茶人を
三原の寺院にお招きする茶会を思いつきました。これも観音様のお陰でござい
ましょう。昨年の師走に寺院担当の上田嘉信様と席主の皆様とご一緒に11カ所の
お寺をお訪ねしました。流石に大名の菩提を弔うお寺でございます。茶会場とし
て快くお引き受け下さり、住職様の一言一句やお話に感銘を受けました。意が通
じたのでしょう新年より全国から茶会券の注文を頂き、何もかも順調に運び、
隆景公のご遺徳の現れでございましょう。

小早川家は相模国の土肥郷から発祥し平安時代よりの名家でございます。関東よ
り安芸国沼田荘の地に移り住み地頭職を継承して四代茂平から本郷町の山城を居
城としていたのです。相模国小田原城は二代小早川遠平が築城したものでござい
ます。時を経て戦国時代には領内の統治、権力誇示を併せ住居を共にする平城に
なったのでございます。竹原小早川家は毛利家と姻戚にあり、元就の三男の徳寿
丸は13歳で養子縁組が結ばれ、後には沼田・竹原両家の頭領を継承する事になる
のでございます。

本年で築城四五〇年を迎える三原城は隆景公が35歳の時二十数年の歳月をかけて
築城したもので、落慶の時には新高山城にある寺院を三原城の護りの要として
山麓に移築したのです。しかし戦国の世は戦への道は果てしなく続き、
秀吉の軍門に下り長曾我部元親を果敢に攻め軍功により伊予国三十五万石を
賜った。

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備後国三原城絵図 江戸時代後期頃

昨年は12月に聖トマス少年の茶会を行いましたがキリシタンに寛容な、隆景公の
事績が松山にもございました。ルイスフロイスが本国に伝える手紙に『村上水軍の
仲立ちでコエリュ神父一行が伊予国に着いた。その国は小早川が多勢の使役をして
高く美しい城を築いていた。小寺官兵衛を通じて伝えていたので武士が一隻の船を
海上へ遣わしてくれました。城までは遠くであったが、非常に立派な屋敷を宿舎と
して提供してくれました。この町はお城より一里程のところに道後という伊予国で
最も主要な町があるらしい。神父はお礼にと非常に高い山にある新しい城に小早川氏
を訪ねた。仕事をやめて大いなる名誉と手厚いもてなしで司祭を迎えてくれた』
と伝えているのです。

この手紙の武士は小早川隆景の異母弟で養子の元総(もとふさ)であり次代を担う隆
景の後継者でございました。備中高松城の戦で清水宗春との講和により元総、
吉川広家、重臣福原元俊の三人は人質として大阪城に送られ、元総だけが帰国を
許されず『秀』の一字を与える程に秀吉に寵愛を受けた若武者、小早川秀包(ひで
かね)は素晴らしい武将であったのでございます。大友宗麟の娘を娶り、戦には
すこぶる強く小牧長久手の戦、備中高松城の戦、四国、九州征伐に父、隆景を支え
教えを乞い親子の絆は羨望の的でござった。常に片腕となって忠義を果たし戦功
を挙げて伊予大和大津城三万五千石の城主となる一方、隆景も軍功により筑前、
筑後、肥前に三十七万七千三百石を拝領して、筑前に名島城を築いた。

宗湛日記によれば太閤秀吉公や諸大名を城に招き連日の茶会を行っていたと
記されています。豊臣政権の五大老となり、知勇兼備にして抜群なる信頼を得て
名将と謳われたが、天命なのか秀吉の甥、羽柴秀俊(秀秋)が毛利本家の養子の
候補にと聞きつけた隆景公は、毛利の存続を考慮して急遽、秀秋を小早川家の
養子にと秀吉に名島の家督を譲る事を願い出るや『天晴なり!』と、筑前三郡
より五万一五〇石、本貫地毛利家より六万六千石の知行を以て三原城に隠居し
たのでございます。

思慮深い隆景公は早々に秀包を伊予より呼び寄せて久留米に分家を立て面目を
保持したのです。秀包はこの事に動ずる事なく大極を見つめて親交をもって
立花宗茂と義兄弟の契りを結んだ。ともに文禄の役にも出陣して碧締館の戦には
大将の隆景を助けて明国の大軍を破り人知れず不敗の名将であったのです。
隆景の死後、秀秋と秀包は関ヶ原の戦では東西に別れ戦ったがその後、秀包は
小早川姓から毛利姓に復して大徳寺で剃髪し仏門に入り玄濟道叱と名乗りましたが
長門赤間関で35歳の若さで示寂したのでございます。

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隆景公の遺文には、
『人は、天から与えられた道を、自分の力で進むものである』
と伝えています。

隆景公の次代を継ぎ、穏やかに担うべきの小早川秀秋、公の遺文に忠実に生きた
小早川秀包、ともに、戦国の世で義兄弟であった小早川家ゆかりの二大名の遺徳を
千人茶会で偲ぶ事が出来れば隆景公もお喜びになられる事でございましょ
う。(秋季号につづく)



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2017年01月13日

茶の湯歳時記同好会新聞 第42号

「上海の孤島、普陀洛迦山の慧鍔大師に御茶を差し上げて」檀上宗厚

丁酉の歳、私にも六回も巡って参りました。
お正月にはいつも「一年でなく、十年の計は歳旦にあり」と楽しんでいます。
尾道の向島にある亀森八幡宮の宇佐宮ご分霊に師匠より『お献茶の意義を
十分に習得して点茶をする様に!』と29歳の時、献茶式を仰せつかりました。
この教えを忘れず大切にしています。

この有難い貴重な経験のお陰でございましょうか、平成十年の春の事です。
浄土寺副住職小林暢善様が『中国観音霊場会の八周年にあたり普陀洛迦山の
慧鍔様にお参りされませんか』とお誘いがございました。

平安時代に中国に渡海した学僧慧鍔が望郷の念を抱きながら帰国叶わず
彼の地に観音霊場を開いた事を知って素直にお茶を差し上げたく思ったのです。

故人になられた金丸様と寺澤様、茶の湯の一番弟子の島田様と四名で
献茶式を行う事に致しました。早速に「中国の寺院に国際小包郵便で
お願いできますか?」と尋ねると『上海までは着きますが、普陀山ま
では無理です』と中国の諸事情に依り茶道具を個々に運ぶ事にしました。

平成十年九月三日、浄土寺研修道場前で長老様のご内室千枝様が
お見送り下さり、広島空港から八日間の旅でございます。暢善様は観音霊場会の
導師として千光寺様、仏通寺で修行中の中国学僧殷様、宮島の大照院塔頭ご住職、
広島の三滝寺様、岡山の西大寺様、備前の長法寺様など三十六名の
団長でもございます。

献茶式のお道具は檜垣風炉釜、棚は桐丸卓、桶川水差、天目台に三碗、
溜塗中棗、茶杓、春慶塗の建水、交趾蓋置、菓子器は浄土寺様の
三宝と茶、灰と炭、お香など持参いたしました。

九月五日、午前八時普陀山の西方浄苑の本堂で赤色のお袈裟に金糸が
眩い衣を纏った中国僧と質素な装束の日本僧の合同法要が終わると
慧鍔記念堂に移りお堂の厨子に黄金に輝いている慧鍔大師に
浄土寺観音の羽二重餅を三宝に山盛りにお供えして、三十人余りの
日中僧侶で再び法要が始まりました。

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慧鍔大師に供茶をされる浄土寺小林暢善住職


中国の般若心経はとても覚えきれない程の独特な心良い音色と
リズムでございました。続いて我が国の僧侶による聞き慣れた
般若心経が堂内に心良く響いて神々しく終えますと僧侶の見つめる中、
作法が始まり、袱紗を捌き、茶杓を清め、点茶した茶碗を暢善様が
鄭重に観音様にお供えされ、慧鍔大師様に、続いて全人代中国仏教会会長、
道生法師様にお茶を差し上げ滞りなく終えました。
すると不思議に堂内が観音様の慈悲に満ちた優しさと慧鍔大師の遺徳が
この上なく豊かに溢れ一座洗心の思いでございました。

お献茶道具の奉納を終えると道生法師様が
『茶が我が国より日本に伝わり作法を確立されました。本日ここに
里帰りして慧鍔大師にお茶をお供えされましたのは世界で初めての事で
ございます。謹んで御礼を申し上げます。
続いてこのご縁を大切にして参りましょう』と言葉がございました。

献茶式も終わり私の草履を捜していると、近くの寺守りの老女が
『貴方様の草履は、先ほど仏僧が手を合わせて懐に入れて持ち帰りましたよ』
「えっ、なぜですか?」と尋ねると
『大師様に功徳をされた貴方様から福を分けて頂く為でございます』と
何も無かったかの様にお陰かどうか解かりませぬが、お国が変われば
不思議な風習があるものでございます。

中国観音霊場会は平成二年に西大寺の坪井全広様、浄土寺小林海暢長老様、
明王院住職様によりご縁が結ばれたのでございます。

平安時代に渡僧が茶を伝え、我が国では遣唐使僧の最澄、栄西が中国から
茶の種を肥前に一粒、高山寺の明恵上人に一粒、宇治に一粒と一粒万倍に
なったのでございます。
応じて浙江省の径山寺で点茶作法を学んだ僧、南浦紹明や道元禅師により
仏様への供茶の作法が伝わったのでございます。ある長閑な晩秋のある日、
道生法師様より文と揮毫の色紙が届き、茶の湯はご先祖様へのお供茶に
始まりお供茶に終わると伝えてございます。

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前人代中国仏教会会長 道生法師揮毫の色紙
『深入經蔵』

時空を超えて中国で学んだ先人の法と志を小事に心を奪われる事なく
受け継ぎ真善美、豊かな茶の湯を伝えて参りますのも
茶人の楽しみでもございます。

(夏期号につづく)


posted by etchuya at 17:24| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞

2016年12月01日

聖トマス小崎を優しく迎えた小早川隆景公 第41号

開門すれば落葉多く、ご機嫌よろしゅうございます。

軍師黒田官兵衛シメオンも係留した三原城跡五番櫓の三角地に筆と奉書を
持った裸足の少年の像がございます。それは三原で一夜を過ごした14歳の
トマス小崎でございます。京、四条大宮の修道院近く妙満寺で父ミゲルと
病める人々を献身的に看病しているとき、早急な政策に及んだ豊臣秀吉の
キリシタン禁教令によりトマス達は一網打尽にされたのです。

死刑宣告文を掲げられ、裸足で京都、尾道、三原と九〇〇キロに及ぶ
長崎までの苛酷な殉教の旅が続いたのです。慶長元年(一五九七)縛られた
一行は十二月二日雪が舞う寒い夜にやっとの思いで三原に着きました。
悲惨な姿を見た町衆は口々に「お気の毒じゃのう!」しかし、
世間の風は厳しく、秀吉の罰を恐れ言葉をかける事さえ出来なかったのです。
軒先で休息のトマスは

『父上様、寒うはございませぬか?』
『伊勢の母上や弟に会いとうございます』
『そうだなぁ。如何にせん、遠くまで来てしもうたなぁ』すると
「どうぞこちらへ同道されよ」その声に
『かたじけのうござる。お礼を申しまする』

父ミゲルはもともと伊勢の弓職人で通じ合うものがあったのでございましょう。
案内の武士は北条時頼の家系で土生太郎左衛門時春でございました。
隆景公に尊崇の念を抱いていた土生家は、岸和田城を造営し軍学にも優れ、
隆景公に請われて普請奉行になり三原城を築いた人でございます。
それは隆景公の信望厚く代々『景』の一字を受け継ぐ程の家柄でございました。
しかし朝鮮の役に出陣した隆景公は多くの家臣を失い時春も彼の地で
戦死をしています。私の祖先檀上監物重行も公の家臣でございましたので
備中高松の戦に隆景勢として出陣しました。

暗い牢屋で『伊勢の母に、文を送りとうございまする』と時春に懇願すると
武士の情けでございましょうか、筆、硯、奉書、薬、灯りまでも
そっと届きました。これは隆景公の優しい計らいでございます。

三原城の小崎.jpg

トマスは墨をすり終えると一気に

『主のお恵みにより一筆したため候。肥前への道は難儀多く候ども
耐える事おしえの如、真理を貫くことに候えば、先で十字架に架かる事あれど、
いささかも悔ゆる事これ無く候。パードレ様方に従い父様共々映えの御召しに
感謝しつつ歩く毎日にて候えば、何卒私どもの事はご放念あるべく願上げ候。
母様方には、パードレ様は不在なれど常の如く天主への感謝の祈りとご諚に
従う事を心がけ致されれば、必ずお救い之ありと思召し下されば何よりと存じ上げ候。
今度あうはパライソ。お待ち申し上げ候。尚、弟達の信仰をよくお導き下さる様、
近き方々には日々の行い悔いなき様努める事こそ肝要とお伝え願い上げ候』

慶長元年十二月二日安芸国三原城にて…

これが死を迎える十四歳の少年が母に宛てた手紙でございます。
しかしながらこの手紙は母には届く事なく共に磔にされた父ミゲルの襟元から
発見されたのでございます。同じくして隆景公もその三ヵ月後に三原城で病に倒れ
一生を終えたのでございます。この事を知ったルイス・フロイスは本国に伝え
現在イエズス会文書館に保存され三原の地名も残されています。
ローマへも伝えられ日本二十六聖人の一人として多くの賛美と敬愛を受けて
いるのでございます。

この史実が光明に満ちて、昭和六十二年、聖トマス小崎の顕彰の機運が高まり
医師阪田光昭、邦子ご夫妻の尽力により設立委員会が結成されて『聖トマス小崎』像が
完成したのです。「よくぞここまでに!」すると『多くの皆様のお陰でございます』と
謙虚な優しい眼差しでございました。

玉壺会はカトリック三原教会の神父、アルナルド・ネグリ様にお手伝いして頂いて、
隆景公の優しさとけなげな聖トマス小崎の遺徳を伝え、
本年十二月三日(土)難波幸一先生によりトマス小崎少年の供茶式と顕彰茶会を開催します。
来年六月十一日には市内十ヵ寺で『築城四五〇年記念千人茶会』を計画しています。
隆景公の遺徳と凛々しく清らかに生きた崇高な少年の実績を末永く顕彰し
多くの先人の遺徳により平和な日本がある事を感謝したいものでございます。

(平成29年初春号に続く)
posted by etchuya at 12:08| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞