2016年10月31日

茶の湯歳時記同好会新聞 第40号(秋季号)「普陀洛迦渡海」 檀上宗厚

仏教の伝来(五三八年)により我が国は遣唐使を送り急速に
国交を深めて政治、経済、建築、法律、歴史、算術、音道、
書道など唐の文化を多く取り入れた。
七五二年九月には東大寺大仏蘆舎那仏が印度僧、菩提僊那を
導師として一万人の僧を招いて聖武天皇、光明皇太后、孝謙天皇の
参列の中で開眼大法要が盛大に行われ日本で初めて茶が
振るまわれたのです。
密教の開祖、空海も八〇四年に入唐して長安の青龍寺、恵果禅師より
真言密教を伝授され高野山金剛峰寺を開山した。当時は多くの学僧が
普陀山、五台山、峨眉山、九華山の寺院を訪れて修行したので
ございます。

平安時代(八五八年)に浙江省、舟山群島の小島、普陀山で慧鍔が開い
た観音堂を私が参拝したのは平成十年九月四日でございました。
南北8.6q、東西3.5q、面積は12.76平方qの南東部にある
洛迦山から普陀山を見ると龍が宝珠と戯れている様に見えるのです。
前漢の時代には『梅嶺』と云い、宋代にはサンスクリット語で
(potalaka)『美しい小白華』と呼ばれた。慧鍔は学僧として
最期の遣唐使船に乗り嵯峨天皇の皇太后、橘嘉智子から
『禅の教えを持ち帰る様に…』とご下命を賜り、八五一年九死に
一生を得て山西省五台山に着いた。
早速、皇太后の贈り物『宝幡(ほうばん)』(皇太后の御璽)・
『鏡奩(きょうれん)』(鏡の箱)等を顕通寺の義空和尚に届け、
我が国と禅宗の交流が始まったのです。

源氏物語の手本と称された嵯峨天皇は、長安にある嵯峨山の風土を
好まれ、唐風に平安京を碁盤の目に整備され朝廷の式や朝官の衣装、
礼服も唐風に変えられ、宴での料理も点心を取り入れて今に
伝わっているのです。

茶にも造詣が深く近江の唐崎行幸の際、梵釈寺の僧永忠が茶を献じて
普及に勤めるよう賜りました。念願の五台山顕通寺に赴いた慧鍔は
文殊菩薩に香を手向け合掌している時、今まで感じた事の無い強い
霊験を受けて御堂に導かれたのでございます。
それを見守っている観音堂脇陣の老僧に一礼すると
『遠い日本から良く来られた。寺に古くから伝わっている観音様があなたをお待ちし
ておられます。どうか日本にお持ちになられて衆生をお救い下さい』と渡された
観音様を見ると何かしら懐かしい父母に会った様な優しい眼差しが伝わり自然に
目に一杯の涙が溢れてきたのです。

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普陀山の観音様

有難く観音様を抱いて大運河を乗り継いで、やっと寧波港から日本に向けて
出帆したのです。ところが舟山群島の普陀山近くになると突然舟が止まり
真黄色な泥水の中で立ち往生したのです。舟の周りの海面を見ると鉄の蓮の花が
何千何百と咲き乱れ行く手を阻まれて転覆しそうになったその時、
抱えている観音様に皆が手を合わせて救いを求め、

『慧鍔様、観音様がここを離れたくないと云われています』
『では一旦岸に舟を寄せましょう』

と慧鍔は、観音様を下ろすと忽ちの内に鉄の蓮の花は消えていったのです。
素直に不思議な力のある観音様と同道して、一緒に普陀山に残る事を
決めたのです。こうして慧鍔大師の『不肯去観音様(ふこうきょうかんのんさま)』は
立ち去る事がない仏様として潮音洞、双峰山の観音院に安置された
観音様の分身が世界に伝わり私達をお護りされています。
望郷の念を抱きながら観音様と帰国しなかった慧鍔大師は多くの島民に
見守られて示寂されたのでございます。
大師は平安時代から今も変わる事なく我が国を見守り、後光を放っておられます。 
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2016年06月20日

茶の湯歳時記同好会新聞 第39号

高山右近と尾道の明喜庵

ある日「檀上さん、橋本さんが茶室を広島の方に寄贈されると
聞きましたが、どの様に思いますか?」と、浄土寺長老様が
お尋ねになりました。私は即座に、「それはなりません!」とお答え
しました。

この事は余り知られていませんが、長老様はすぐに市長さんに
「尾道に存する文化財はそのままある様に」と懇願され、
正思惟なお考えと文化財に対する造詣の深さにより、明喜庵は
尾道に留まったのです。

橋本家は代々町年寄を努め、文人墨客と交友し浄土寺方丈、神社仏閣への
寄進や飢饉に慈善事業、広島銀行の創業、商工会議所の創設など近代産業の
普及、育成に尽力された尾道の豪商でございます。所有する茶室、爽籟軒は
腰掛待合、南北に続く露地、中央には「明喜庵と四畳半」の茶室、江戸時代には
防地川に面して船着場が造られ、尾道港よりお客様を迎えての茶会でありました。

茶室は京都の大山崎の禅寺、妙喜庵にある待庵と同じ形式の『明喜庵』として
備後尾道の橋本家に伝わっています。庵名は移築の際、ご遠慮なされたのか
明喜庵と書かれています。

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山崎にある待庵は豊臣秀吉公が明智光秀と山崎の合戦の折、利休に
命じて造らせた草庵茶室で、日本最古のものでございます。
天井は低く床は室床で四方に土壁で塗回して一畳の客座と向切の炉
(隅炉)があり、二段の仕付棚があります。


高山右近に宛てた利休の手紙

利休は天正十年十月二日、待庵作事の時、造詣の深い高山右近に
相談し、その後に礼状を送っています。その礼状には…

「丸太六本、仰せ付けられ候内、一本用に立ち申し候、大慶。
この事に候、相残るも別に用に立ち申すべく候、御念に入り候、
秀公へ申し聞かすべく候、御使者に懇ろに申し含め候、恐惶。
囲炉裏の由に候、本望に存じ候、以上。神無月二日、易花押。

封印の表書には高右公まいる。回答、易。山崎より」とあります。


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尾道の名席「明喜庵」と「露滴庵」

私は以前より橋本家の「明喜庵」の移築材の跡を見ると、
残された五本の内の丸太を使って造られたものであろうと
考えています。当時は宗家は茶室、茶道具など後世に伝える様
伝書にあり、古田織部は燕庵写しを作事する事を一般に許す
かわりにお家大事の時は移築する様にと伝えています。

蛤御門の戦で焼失した藪内家の「燕庵」は摂津の武田儀右衛門家から
移築されているのです。この様に茶室や茶道具は現在に受け継がれて
いるのでございます。利休時代よりの織部好茶室は日本には浄土寺の
露滴庵と藪内家燕庵の二ヵ所しかございません。右近、織部が係わった
茶室が尾道に存在する事が心豊かになります。

茶書にみる高山右近の茶の湯

右近は臨終の際「わが魂は、天地万物の御作者である神をひたすら
慕い奉る」と遺言しています。命は神の物であると考えていた右近は
信仰の力の大きさを茶の湯に取り入れ正しい思索、正しく生きる、
正しい理想、正しい努力、正しい見方を備えた武将でございまし
た。

右近は茶の湯も真剣勝負で臨み、ある時、千少庵の茶会に招かれ
緊張の余り手が震え顔つきまで変わっていた事を宗旦がそばで見
ていて改めて茶の湯は「大きなる事」なのだと痛感したと「江岑夏書」に
残されています。茶の湯文化は我が国に連綿と続いていますが、
作法ばかりでなく正しい精神を伝導したいものです。



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2016年04月12日

茶の湯歳時記同好会新聞 第38号

マニラに渡った聖なる茶人『高山右近』の茶の湯C 檀上 宗厚

 領地没収となった右近は同じキリシタン大名の小西行長に庇護され
小豆島や肥後に隠れ住んでいたが、加賀の前田利家公に招かれて
天正16(1588)年に金沢に赴いた。

キリシタン大名の蒲生氏郷の元に『右近の金沢への下向は、
本人の意思であり目出度い事で安堵した』と千利休の文が届いた。
前田利家は信長に幼少から仕え、秀吉とも昵懇の間柄で
利休から茶の湯の指南を受けており、自然に右近とも
親密な関係であったのです。

 利休が金沢行きを喜んだ背景には茶の湯の人脈に対する
強固な信頼があたからでございます。

その後、関東の役が起こり秀吉は小田原の北条を攻めた。
右近は利家軍として勇猛果敢に戦功を上げ、
それを周知していた秀吉は右近の武功に対して
今までの事を赦免したのです。

利家は秀吉の意を汲んでか、軍功として右近に2万石を与え、
二度と武士になるまいと心に決めていた右近であったが、
利家の謝恩に再び近臣の大名になったのです。

文禄元年には肥前名護屋城で、茶会に招かれ秀吉と謁見し
和解が成立したのです。
それからの右近は、多忙な日々を過ごし慶長4(1599)年には、
前田利家より金沢城の*『縄張』を命じられ城を防御の為、
内外に二重の塀で囲み強固な城を造ったのは高山右近でございます。

キリスト教の布教や茶の湯のみならず、百戦錬磨の右近には
築城にも造詣が深かったのです。

翌年には天下を二分する関ヶ原の合戦が起こり右近は
前田家より徳川家康軍として参戦し北陸の大聖寺城を攻め
勝利を収めたのです。

ところが慶長13年、豊臣秀吉が
『露と消ゆ、夢と消えにし、わが身かな、浪花のことも、夢のまた夢』
と秀頼を五大老に託して世を去り、その翌年には後を追うように
利家も亡くなったのです。

以前より死期を悟っていた利家は、嫡男利長に
『高山南坊(みなみのぼう)は律儀な人ゆえ、これからも少々の茶代を遣わし
情けをかけるように・・・』
と遺言しているのです。
戦乱の世に、わが身より右近をこれ程思い慕われた武将は曾ててございません!

ルイス・フロイスの記録によれば、金沢藩主前田利長も入信を希望して、
宣教師が金沢を訪れた際に厚遇した事、右近に対して信任も厚かったと
本国に報告しています。

慶長14(1609)年秀吉公や父の後楯を無くした利長は、
新たな居城となる高岡城をより一層強固に造る様に『縄張』を
右近に命じているのです。

城内の隅々を極秘に周知する事は戦略上、重要な事で
如何に右近を信頼していたのか良く解ります。

前田利家の近臣となった右近は先陣を務め『いくさ』が滅法強いのは
『信仰によるものであろうか?見えぬものが見えるのか?』
迷う事なき直心の正功法で意表をついた戦法だったらしい。

慶長17年徳川家康は旗本の中にもキリシタンがいる事に危機感を覚え
二代将軍秀忠の名で禁教令を発布した。

右近をはじめ国内の修道士やキリスト教徒と同様に
長崎からマニラに国外追放の身になった。

金沢に36歳から62歳の老境に至るまで、26年間を過ごし
惜別の思いであった事でしょう。

慶長19年2月金沢を去るに際し利休を茶会に招いた時の茶入を
お手元に差出し『利長様、今まで、安穏の暮らしをさせて頂いた
お礼でございます。どうぞお受け取り下さいませ』
すると『南坊様の大切な茶入でございます。御身の御守りとして
お持ち下され』と利長は涙ながらに辞退されたらしい。

その後誰かに委ねられたのでしょうか?この茶入こそ
唐物の名物『侘助肩衝』の茶入として我国に現存しているのでございます。

その年の11月には長崎から家族とマニラに向け、利休より貰った
『鶴の羽箒』を携えて老朽船に乗り嵐などの苛酷な航海の末
12月ルソン島マニラに着いたのです。

待ち侘びていた人々は信仰の為に犠牲になった『高山右近ジュスト』を
英雄としてスペイン人のフィリピン総督やマニラの市民が
右近を大歓迎したのです。

しかし、船旅の疲れや慣れない気候の為、程なく病を得て
慶長20年2月3日に64歳を一期に、波乱万丈の生涯を閉じたのです。

葬儀はマニラ全市を挙げ10日間にわたって行われたと云う。

『信条を貫き、青天にして白日に生きてよかった』と
マニラのパコ駅前広場に右近の銅像が爽やかに日本を見つめて
建っているのでございます。


*縄張・・・普請奉行として築城の設計と施工を取り締まる


posted by etchuya at 15:18| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞