2016年02月17日

茶の湯歳時記同好会新聞 第37号 

聖なる人 浪人となった『高山右近』の茶の湯B  檀上宗厚

天正15年(1587)3月に、九州統一を目前にしていた島津を討伐すべく、
秀吉は九州攻めに右近と当時水軍を束ねていた小西行長とともに
海路を進軍した。

出兵に際して秀吉は右近と行長の父、小西隆佐に
肥前国を与えると語っていたらしく行長は畿内最大の港町、
堺ゆかりの人物であり文物に通じ、南蛮交易にも造詣が深く、
互いにキリシタン大名であった右近とは親密な交際を
保っていたのでございます。

5月には秀吉は島津氏を降伏させ九州を制圧したのです。
その帰途、筑前筥崎に宿営していた秀吉は、どうした事か
日本地区イエズス会の責任者ガスパール・コエリョに対して
伴天連追放令を宣言した。

その内容は『わが日本は神国であり、キリシタン達は
大切な神社仏閣を破壊している。日本人の志を尊び
次第に入信させるものと聞いていたが、
日本の仏法を破壊する行為は許し難し。
故に日本における宣教師は20日以内に日本国より退去せよ!
しかし黒船は貿易の為で支障なく南蛮貿易は続けよ。
今後仏法を破壊しないと誓うならば出入国は許す』
と書状を発布したのです。

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同時に秀吉は右近に棄教を迫り、
『キリシタンの教えは悪魔のものであり、
この様に武将の間に広まったのは右近の感化によるものである。
キリシタンの間では親兄弟の絆が固く天下の統治には
重大な障りなるであろう。城を与えた高槻の民と同様に明石の民の
キリシタンは寺社を破壊している。これは容認できない。
これに従えないなら太閤に仕える事はできない』と
従軍中の高山右近に対し通告したのです。

これに対し右近は『高槻、明石でのキリシタン急増は
自分がした事で殿下に対し何ら無礼をした覚えはございません。
全世界に代えてキリシタンの教えと
霊魂の救いを棄てる意思はありませぬ故、たってと仰せならば、
明石6万石は即刻殿下にお返し申し上げます』と答えた。

その場にいた者はうわべだけでも恭順するようにと促したが、
右近は速やかに『信仰に関し神を裏切る二枚舌は使えませぬ!
自分の意思を正しく殿下にお伝え下され』と晴れやかに告げる、
右近に使者も感動したと言われています。

これほどまでに一国を返上する覚悟と何事も真摯に取り組む武将は、
今まで経験のなかった秀吉は、右近の拒絶の返答を聞き
『武士らしい見事な態度で見習うべきでござる!』と
感ずるところがあったのでしょう。

山崎の合戦以来、秀吉の為に忠節を尽くしてきた右近の高潔な人格を
秀吉も高くかっていたのでございます。

始めから右近の拒絶に対し激怒と厳罰で答える気はしなかった秀吉は、
さらに右近の本心を確かめるために心変わりを誘おうと
再度使者を送り『お前が断固として棄教しないというなら、
本当に知行も大名の身分も没収いたすが、
一介の侍として生きようとするならば
肥後の佐々成政に仕えることは認める事にしよう。
しかし拒否するなら中国へ追放するが、返答を待っている』
と第二の通告をした。

しかし右近は動ぜず通告も毅然と拒否し
『佐々成政殿に仕える意思は毛頭ございません。
殿下が国外追放すると仰せならば、従う覚悟でございます』
と答えた。

また右近の能力を認めていた秀吉の意を受けて茶の湯の師、
千利休が説得に出向き
『右近殿、この度の事お考えをお改めされては
如何なものでしょう』と促したのですが、右近は
『利休様、師のご命であったとしても、侍である以上、
一度天に志したことを安易に変えることは出来ませぬ。
どうかお許し下さいませ』と答えたのです。

その報告を受けた秀吉の堪忍袋の緒が切れ怒りは爆発し
右近の改易と追放を決めたのでございます。

しかし、秀吉は右近を心から嫌っていたのでなく、
いつか改心する事を願っていたのです。

天下人は法を厳しく守り如何なる事柄も臆する事無く
決断するものですが、半面優しさも持ち合わせているものです。

その後、大友義統、蒲生氏郷、小西行長、有馬春信、黒田勘兵衛など
全てのキリシタン大名に、等しく棄教を迫ったわけでもない事から
よくわかります。せめての秀吉の優しさかもしれません。

 現在もなぜ高山右近を標的にあれほど執拗に棄教を迫り
他大名に対しては緩かったのか不可解でございます。

それからの高山右近は、流浪の身となり6万石の大名から浪人となって
キリスト教を布教行脚するのでございます。

                        (次号に続く)

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2016年01月27日

茶の湯歳時記同好会新聞 第36号 聖なる茶人『高山右近』の茶の湯

備後地方の経済レポート誌に連載中の1月10日号、
茶の湯歳時記同好会新聞の記事を掲載します。

「キリシタン大名 高山右近の茶の湯 A」 檀上宗厚


昨年は、古田織部と高山右近の没四百年を迎えました。
高山右近の幼名は彦五郎と云い、天文二十一年(1552)
摂津高山(大阪府豊能郡高山)に生まれました。高山家は
土豪の領主で、父の飛騨守(図書)は勇猛果敢で武芸にもすぐれ、
松永久秀の配下として大和国、沢城主(奈良県宇陀市)でありました。

右近の生涯で、強く影響を受けたのは父がキリスト教に入信した事でございます。
京都・堺・奈良を掌握していた松永弾正久秀は熱心な法華宗信徒で、
配下にあった飛騨守もキリシタン反対派の急先鋒でございましたが
永禄六年(1563)延暦寺と結んでキリスト教義を悉く論議を尽くし
破教に向け布教を挫く策を講じた久秀は、仏教に通じた配下の結城忠正、
公家の清原枝賢(しげかた)に命じ司祭ガスパル・ビレラの替りに布教に参上した
日本人修道士ロレンソ了斎に宗論を挑ませました。
飛騨守はロレンソと仏教の論議が続く間その審査を務めたのです。

当初は三人とも嘲笑していたのですが、今まで経験した事のない他宗の教義に
拘りなく深く共感してキリスト教の入信を決意してしまったのです。
まずは結城氏、次に清原氏、飛騨守もビレラにより受洗したのです。
彼らの入信は感情的な動機でなく、教義に対する理性的な理解によるもので
戦国武将として重要な意味があったのでございます。

我が国の武士道では、主君へ忠誠を誓い命を捧げるものですが、
西洋の騎士道では、神と君主の為に有る事に驚愕したのです。
このことに感心した飛騨守は妻や子、家臣150名ほどをキリスト教に入信を勧め、
右近が受洗したのは12歳の時でございます。洗礼名は「ジュスト」と云い、
義の人という意味でございます。天正元年(1573)、織田信長の家臣、
高槻城主の和田惟政(これまさ)は和田領に攻め入った池田の軍勢に討たれ
右近は嫡子である惟長と高槻城に籠城して守り抜いたのでございますが、
家中で人望を集めていた高山父子に暗殺を諮る惟長の陰謀を知り、失意の
うちに高槻城内において惟長を襲撃したのです。
ところが不運にも右近は致命傷を負い重体に陥り生死をさまよったのです。

宣教師ルイス・フロイスが「神の思し召しにより右近を奇跡的に回復に導いた」と、
神が命を救ったと知り、右近は一層の信仰心を深めたのです。父の隠居後、下克上
の最中、荒木村重に忠誠の証として長男、妹を人質に差し出していたのですが、
織田信長が右近のもとへ高槻城を開城しなければ、都の宣教師をすべて殺戮すると
通告してきたのです。荒木村重を支持し続ける父との葛藤に別れを告げ、
高槻城主を捨て、刀を置き、紙子一枚を着てキリストの教えを守り、命を
絶つことなく投降して家臣、宣教師、一族を救ったのです。

高山右近の肖像(金沢カトリック教会所蔵).jpg
高山右近の肖像(金沢カトリック教会所蔵)

有岡城を追われた村重は毛利家を頼り、飛騨守も同様に福井北ノ庄へ追放されたが
右近の助命嘆願により、柴田勝家に客将として迎えられたのです。
信長はゆるぎない精神の右近に高槻城開城を決意した功績により四万石を与えました。

右近は戦上手で、戦歴は13戦10勝1敗2分、緻密で強靭な武将であった事が判ります。
天正11年、羽柴秀吉と柴田勝家との間に賤ヶ岳の戦いがおこり、右近は秀吉勢として
参戦しました。その時の右近と中川清秀(織部の義弟)の軍議の様子を、
ルイスフロイスが「日本史」の中に記しています。

右近曰く「中川殿、柴田、佐久間ノ軍勢ハ、一万六千ニテゴザル、
     我軍ハ二千ニテノ戦ハ、ココハ先ズ退キ、後日、
     功ヲ立チ給へルベキ」と、

清秀曰く「何ヲ申スカ、大臆病ノ輩ニ、何ゾ組スベキ」と、

一喝して開城に踏み切ったと伝えています。
この無謀な戦で右近は義兄弟二人、岳父、高槻の身分の高い多数の家臣を
亡くして、武家の生き方に疑問を持ったのです。
武士道の云う「勇猛果敢」と「歴史に名をとどめる事」を至上とする、
封建的武士のあり方、玉砕を美化する日本的な美学とは全く次元の異なる
キリストの教えに大切な命と真摯に向き合う武人の理想を、この時
見出したのです。

天正13年、秀吉は信任の厚い高山右近に、明石船上城6万石を与えました。
右近34歳の時でございます。この後、利休七哲の蒲生氏郷や、名軍師の
黒田官兵衛をはじめ、武将にキリスト教入信を勧め、「伴天連の大旦那」と
呼ばれるに至りました。

しかしその2年後、右近が考えてもなかった大事件が起きるのです。

2月10日号に続く…


posted by etchuya at 19:03| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞

2016年01月18日

茶の湯歳時記同好会新聞 第35号 キリシタン大名『高山右近』の茶の湯@

備後地方の経済レポート誌に連載中の12月10日号、
茶の湯歳時記同好会新聞の記事を掲載します。

「キリシタン大名 高山右近の茶の湯」 檀上宗厚

利休七哲の一人、高山大蔵少輔右近は日本史上を代表する
キリシタン大名である。13歳で受礼して洗礼名をジュスト、
父の高山飛騨守は畿内のキリシタンの先駆けであった。
右近は家臣や武将にも信仰を広げ、キリシタンとして国内外に知られ、
また数々の戦歴を持つ武将で千利休門下の茶人でございました。


キリスト教は二千年以上に亘りイエスの誕生によりこの世に始まりました。
世界の宗教人口比率によればキリスト教33%、イスラム教20%、
ヒンドゥー教13%、無宗教16%、中国民間宗教6%で、我国の仏教は
5%でございます。キリスト教は世界一の信徒数でございます。
12月25日はイエス・キリストの生誕を祝う行事が我が国でも行われています。
子供たちに『クリスマスって何の日?』と聞けば、
『サンタさんが贈り物を持って来てくれる日』と答えます。

サンタ・クロスは4世紀に実在したニコラウスが貧しい人に
金貨を贈ったという伝説が伝わってございます。
それにクリスマス・ツリーは8世紀にドイツで樫の木に宿る神への
生け贄になる少年を救う為、全ての樫の木を切り倒してその代わり、
樅の木を人々に与えたのが由来でございます。
今では松やヒイラギなどの常緑樹が使用されツリーに
綺麗に色々な物を飾り付して私達を和ませてくれます。

私が子供の頃、クリスマスの日は仏教徒の父がケーキを買って夕食後、
家族6人で座卓を囲み兄弟が見つめる中で母が上手に慎重にナイフを入れ、
均等に切り分けて食べたものです。


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我が国に初めてキリスト教が伝えられたのは、フランシスコ・ザビエルが
43歳の時で、1549年4月15日、トーレス神父、フェルナンデス修道士、
マヌエルという中国人、アマドールという印度人、ゴアで洗礼を受けた
弥次郎と3人の日本人が、印度を出帆して日本を目指したのです。
ザビエル一行は、明国の上川島(広東省江門市)を経由して、同年8月15日
弥次郎の先導により薩摩(鹿児島県日置市)に上陸したのです。

奇しくもその日が聖母マリアの昇天の日にあたる事からザビエルは、
日本での一生を捧げる事に決め、布教の成就をマリアに祈ったのです。
早速、薩摩の守護大名、島津貴久公に謁見して難なく宣教の許可を得たのですが、
その後仏僧の助言を聞き入れた貴久公は禁教に傾いたのです。

この事から程なく薩摩の地を去り、1550年8月には肥前平戸を布教の地として
トーレス神父に託して、ザビエル一行は博多、山口、尾道、堺、大阪と
布教を続けながら、宣教の許しを得る為にインド総督とゴアの司教の
親書を携えて京を目指したのです。

しかし乍、後奈良天皇、足利義輝の謁見も叶わず失意の内に僅か
滞在11日で京を去ったのです。再度山口に戻り布教活動の執心さに、
深く感銘を受けた大内義隆公は、領地での信仰の自由を許し
手厚く廃寺の大道寺を教会として与えたのです。
ザビエルにとっては正に救いの神だった事でしょう。
如何なる時でも、寛容な広き心の持ち主はおられるものでございます。

その甲斐あって2ヵ月の内に信徒数は500人を超えたと云われます。
それでもザビエルは果敢に豊後(大分市)の守護大名、大友宗麟に赴き
受礼の進言に努め、宗麟はキリシタン大名となったのです。
その後ザビエルは京に上り織田信長の謁見を二十数回試みたが叶わず、
京での宣教が2年を過ぎた頃、日本での布教は日本文化をもっと
学ぶ事が肝心と気付き、それには大きく影響を受けている
明国で学ぶ事が不可欠と考えたのです。

再度明国を訪ねたが入京は思う様にいかず、体力も衰えるうちに
精神的にも消耗して病に侵されたのです。
1552年12月3日に43歳で波乱万丈のうちに志なかばでこの世を去ったのです。
ザビエルはこの事を本国に伝える様にと日本人を高く評価した
手紙文を残してございます。それには、

『今まで會て、出会った異教徒の中で最も優れた国民で、
 特に名誉心が高く貧困を恥としない。将来優れたキリスト教徒に
 なりうる資質が十分ある人々である』

当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価でございます。
日本人として、この素質を大切に残された言葉に恥じぬ様に精進したいものでございます。

第36号につづく…
posted by etchuya at 15:13| Comment(0) | 茶の湯歳時記同好会新聞